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2月23日 不自由のチカラ

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「文化」の対義語は「自然」と広辞苑にあったけれど、私の頭の中ではあまり解釈できないでいます。私は和綿という素材をつかって手紡ぎ手織りの布をつくっているけれど、エコでオーガニックでナチュラルな生活を送ることに熱心になっているわけではありません。というよりは、文化的な活動を崇高なものだと思うし、そちらに関心を持っています。でも、自然軽視なわけではもちろんなくて、文化的なことも、その土地(自然)の特徴や歴史、社会情勢などから発生すると思っています。自然の猛威に人間が太刀打ちできないことはわかっているし、自然の偉大な力は絶対的なものだと思う。だからこそその中で少しでも心地よく生きるために人間が知恵や工夫やユーモアなどを絞って生まれるのが文化と呼ばれるものなんじゃないかと思います。そこには感情とか情緒とかが伴っていて、やっぱり人間らしい崇高なものなんだと思います。もちろん、自然界の素晴らしい景色とか摂理なんかに感動するのも感情があるからであって。

日本の伝統的な行事とか、習慣とかも文化だし、昨今の漫画とかアニメとかも日本の文化なんですよね?でもたぶん、どちらも現状に適応しようとするなかで、日本人がつくりだしたものなんじゃないかと思います。その時に必要とされているものというか。伝統的な祭りとか呪術的なことなどは、やっぱり厳しい自然と共に生きていくために生み出されたものだろうし、和食なんかもその土地固有の食材や作り方で必然的にそう形作られたものなんだろうし。アニメや漫画も、今の日本の社会に暮らす日本人の感情が作り出したもの、ある意味今の日本の姿を表しているものなんでしょう、きっと。
私が子どもの頃は、漫画はどちらかというと先生も親も薦めないようなものでしたが、今では芸術作品として認められているようなものも中にはあって。思えば浮世絵だってそうかもしれません。もともと高級なとか知的なとかいうものでないから作品自体の価値の認識が薄かっただけで、手のこんだ作品には時代や場所を超えて魅かれる何かがあるのかもしれません。でも、一部のコミュニティーに限られるものと、国民的に根が広がっているものとではまた違うのだろうし、社会現象と文化も違う。また時代時代の社会現象があちこちでポピュラー化して定着したり価値を変えたりするものもあるのだろうし、不思議なもんだなぁと思います。

文化は理性と欲望の間にうまれる、みたいなことを酔った勢いで主人が言っていたのだけど、私もなんとなくそう思っていて。文化って、明るくクリーンで健康的なところよりも、ちょっと闇な部分とか、不自由さからうまれるような気がします。今でいえば、社会の一員としてあるべき姿と、それと折り合いのつかない自分の中の何か、その間を埋めるものとしてうまれることもあるんじゃないかと。人道的に踏み外さなければ汚れた部分もきっと必要で、健全なだけでは逆に変な社会になってしまうのではないでしょうか。

例えば煙草、健康にも良くないし、お金はかかるし、何にもいいことはないんだけれど、喫煙者に聞くと食後の一服はたまらないと言う。一連の仕草や間(ま)に美学を持っている人もいる。それから車。燃費より走りに重きを置く人がいる。重くてかさばる紙の本。こちらもかさばる上にけっして高音質でないアナログのレコード。実用だけでなくそこに付随する何かに救われる人たちがいます。私が書いていることはたぶん時代錯誤なことなんだろうけれど、でも、数値とか形とかに表れない部分を想像し感じ、行間を読み取るような感性は、本来日本的で、大切なことなようにも思います。

少しでも自分が得したいとか、そんなハウツーとか、自分に不都合なことがおこると些細なことでもクレームをつけるとか、状況や相手の立場も考えずにマナーだのモラルだの正義だのをここぞとばかりに振りかざして攻撃したりとか、そんなことも頻繁におこる世の中だけど、それは幼稚で寂しいことだと思います。なんていうか、表もあれば裏もある。顔で笑って心で泣いて、お金はないけれどお洒落するとか、後輩に驕るとか、無駄なことに心血を注ぐとか、粋で意気な世界はもうなくなってしまうのかな。直接タメになるものでもないし、生きていく上で決して賢いとは言えないけれど、そんなところから何か新しいものがうまれてくるんじゃないかなぁとも思ったりしています。そしてその方がわくわくすると思いませんか。

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