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9月18日 片仮名で書くということ
工房からスカイツリーモノクロ.jpg
線路沿いの住宅街にある工房の窓からは、今日もまた、電車と踏切の音や、子供たちのはしゃいだ声や、まだまだ活躍中の風鈴の音がきこえてきます。日が暮れる頃にはどこからか夕餉の支度のいい香りもしてきます。
この狭い近辺だけでも、いくつもの暮らしが営まれていること、ぼんやり想像しながら今日も作業です。

毎日毎日、修行のように糸車を回していると、なぜ糸を紡ぐのか、そもそも糸を紡ぐって何なのか、自問することがあります。
手で糸を紡ぐなんて、この近隣の人たちどころか世の中の大多数の人たちにとっては「?」がいくつも付くほどのピンとこない行為でしょう。
なぜ手紡ぎなのか、尋ねられることも多々有りますが、布になった時の風合いだとか性能的な事柄は別として、的確に説明するのは難しいです。


糸車を回している時は、日頃忘れてしまっている扉が開きます。その扉が開いている時は、見えないものが見え、聞こえないものが聞こえるような気がします。手仕事の時代の昔の人や棉という植物に想いを馳せる時間、自他合一、繋がっていることを身を持って感じる時間です。


答えを探している時にヒントにするのは、やはりテキスタイルとテキストの関連性で、頭に浮かんだのは、この夏に手にした本です。

原民喜が鮮烈な戦禍の惨状を片仮名で表したように、吉増剛造が吉本隆明の「言語にとって美とはなにか」を片仮名で書き写したように。

「・・・この辺の印象は、どうも片仮名で描きなぐる方が応わしいようだ。それで次に、そんな一節を挿入しておく。

ギラギラの破片ヤ
灰白色ノ燃エガラガ
ヒロビロトシタ パノラマノヨウニ
アカクヤケタダレタ ニンゲンノ死体ノキミョウナリズム
スベテアッタコトカ アリエタコトナノカ
パット剝ギトッテシマッタ アトノセカイ
テンプクシタ電車ノワキノ
馬ノ胴ナンカノ フクラミカタハ
プスプストケムル電線ノニオイ 」(原民喜「夏の花」)

「・・・ただ単純に変換してと思ってたら、それはね、書いてる意識が全然違うのよ、ね。考えてみたら、平仮名と片仮名、全然違うからね。リズムは違うし。そこでね、揺れるときの揺れが、これ読んでたら絶対にわかんないよ。・・・」(吉増剛造「我が詩的自伝 素手で焔をつかみとれ!)

音に出したら同じかもしれないけれど、当たり前の表記でなく片仮名にすることで立ち上がってくる何か。
もしかしたら、そういうことを求めて糸を紡いでいるのかもしれないです。

糸紡ぎを通して、自分は随分と贅沢な時間を過ごしているのだと思います。


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