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7月2日 世の中とベクトルが合わない私だけれど

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インターネットでニュースを見ています。未来の暮らしに関わる大切なことから芸能人のゴシップまで、同じ様に並べてあるトピックスの一覧。そんな多種多様な話題を、やっぱり同じ様に並べて眺めている自分にぞっとします。
何が大事なのか、何が真実なのか、何だかぼんやりしてどれもに靄がかかったようではっきり見えない。大切なこともそうでないことも同じ様に扱われることに自分は違和感を感じなくなってきているんじゃないか、大切なことが後回しにされていることも気付かずに、そうでないことが重要だと思っていないか。実体のないまま「つもり」になっていないか、なんて思います。

やっぱり向き合い方なんでしょうか。人に対しても出来事物事に対しても。ひとつひとつにしっかり向き合えば、否が応でも自分に染み込んできます。例えばわからないことを調べるにしたって、労力を使うのと簡単に検索で済ますのとでは違う。
ラクしすぎなのかもしれません。垂れ流しの情報の精度も重要性も気付かないほどボケてしまっているのなら。
もともと私はラクしたがり、隙あらばラクしたい。でも一方で心配性でもあるから、ラクし過ぎて大丈夫かなぁと思うし、ラクし過ぎるとそれなりのつけがまわってくることもわかります。今はいろんな人といろんなことを共有して繋がって、知らない世界が広がっています。でも、やった「つもり」、わかった「つもり」に陥らないように、ありたい。仮の世界、虚像の世界に曖昧に自分を置くのではなく、「自分」という実体をしっかり持ちたいって思います。難しいですけれど。

もっとその人個人の秘め事を大切にした方がいいような気もしていて。ちなみに変な妄想とか、本心を抑えて鬱憤を溜め込むようなことを言っているのではもちろんないです。なんていうか、自分との対話みたいなものです。誰が見ていようが見ていまいが、自分は恥ずかしくない生き方をしているか、というようなことです。例えば、公共のトイレをキレイに使うとか、球児がグラウンドに入る前に一礼するとか、「そんなことをしたらバチが当たるよな」って考えるとか、そんなことです。やってもやらなくても実際わからないようなことを自分に問いかけて自分の判断で行う、そんな風でありたい。ただ毅然とそう「在る」ということからプラスのエネルギーが波及することもあるんじゃないかと。そんなこと無意味だ、直接実効性のあることをすべき、といったギスギスした考えはあやういと思います。そこがなあなあになれば負のサイクルに陥ってしまう気がします。

正直なところ、もう四十路も過ぎると、役に立ちたいとか、喜んでもらいたいとか、そういう気持ちはあるのですが、誰かに褒められたいとか、目立ちたいとか、有名になりたいとか、儲けたいとかそんなことには全然頭がいかなくて、自分一人に向き合っているようなところがあります。
それは結局は手仕事にもつながっていると思います。表面上わからなくても手抜きはしない、出来上がるものに直接関係なくても制作に付随する他のことも雑にしない。そんな気持ちでやらなくてはと、自分を戒めています。そのおかげで手間も時間もかかってしまうのですが、経済効率だけで計れないものもあります。

結局、人間って、脳はたくさん使うようになっても、その本質は大昔から変わっていないように思います。恨みつらみ、私利私欲、残念ながらそういうものはなくならない。でも単純なことで喜んだり、晴れやかになったりもする。その場所その時代に、「自分」がどうあるか、、そんなことを考えながら生活してます。

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